◆日本三大殉教のさきがけ、「京都の大殉教」
川端正面の交差点をはさんで甘春堂本店とちょうど斜め向かいの歩道に、「元和(げんな)キリシタン殉教の地」という石碑が建っています。
キリシタンの歴史といえば、まず長崎を思い浮かべる方が多いと思います。長崎では「大浦天主堂」をはじめ、「26聖人殉教の地」など数多くのキリシタン関連史跡がありますものね。京都で「キリシタン殉教」とは、私は知識がなかったため、はじめはピンと来ませんでした。
しかし、調べてみると京都はキリスト教の歴史が古く、江戸時代には信仰の篤いキリシタンが数多くいたと記されています。近世には「だいうす町(デウス(神)の意)」とよばれる地名があったそうで、そこではキリシタンが貧しいながらも、平穏に信仰を守り続けていました。それに、歴史上有名な長崎の「26聖人殉教」も、実は京都の信者が犠牲となった事件だったのです。
日本のキリシタン殉教史において「大殉教」は3つあるとされており、それは、「長崎の大殉教」(1622年)、「江戸の大殉教」(1623年)、そして今回ご紹介する「京都の大殉教(元和キリシタン殉教)」(1619年)なのです。犠牲者の数は、それぞれ、長崎が55名、江戸は51名、そして京都の大殉教が52名と、相当の数の信者が想像を絶する拷問の末、処刑されたのでした。中でもこの「京都の大殉教」は、日本三大殉教の中で最も先駆けて行われ、さらに日本における幼児の殉教として、歴史的にも非常に意味合いの大きい事件だったとされています。
◆都・京都でのキリシタン弾圧
慶長17(1612)年、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始し、2代将軍・徳川秀忠は、2度目の「キリシタン禁令」(1613年)を布告しました。この頃から、京都にあったとされる慶長天主堂をはじめ、京の内外に散在していたキリシタン教会を焼き払わせるなど、急激なキリスト教の禁止が行われました。
そして、元和5年(1619)年、京都が大弾圧のさきがけ地となります。キリスト教迫害の強化に伴い、63名の一般信者が捕らえられ、小川牢屋敷に投獄されました。そのうち8名は、劣悪な収容環境のために獄中で死亡したといわれています。
当時、京都・伏見に上洛していた秀忠は、伏見でキリシタン投獄者がいることを知ると、全員を処刑することを命じました。しかも、すでに釈放した信者まで再度捕らえ、全ての信者を火あぶりで処刑するようにとその方法まで指示したと言われています。
その結果、同年10月6日に、52名のキリシタンは9台の大八車に積み込まれ、市中引き回しの上、現在の正面橋のあたりに連れて来られました。河原には27本の十字架が方広寺の大仏と対峙するように建てられていました。刑場には、入洛した秀忠をはじめ、家臣や町人の見物者が大勢集まっていたそうです。
さて、この処刑では、こんな親子の悲劇のエピソードがあります・・・
≪後編:橋本テクラと5人の子どもたち に続く≫
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