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隠れ京都案内「耳塚(鼻塚)」

執筆者: 木ノ下 千栄(きのした ちえ)


京の不思議史跡 「耳塚(鼻塚)」

東山区には、「豊国神社」「方広寺」「太閤平」など、
太閤・豊臣秀吉の残した史跡が数多くあります。

 太閤秀吉の遺構の中でも、最近訪れる人が多いのが「耳塚(鼻塚)」。
 耳塚の隣には「耳塚公園」があり、私なんかはよくそこで
 遊んだものでした。

隣接する「耳塚公園」。桜が満開です。

 京都市の立てた説明書によると、耳塚は、

 この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592〜1598年)にかかる遺跡である。


 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。


 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。 秀吉が引き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。

堂々としたたたずまいの五輪の石塔をのぞむ。まるで古墳のようです。

と記しています。下にはハングルで同じ説明がされています。


 昔、戦争では敵を殺して持ち帰るとき、高級将校の場合は首(頭)を「みしるし」としたそうです。足軽などの身分が低い場合は、耳や鼻をそいでかわりとし、それ以下のものは、「打ち捨て」といって、検分がなされなかったそうです。首や耳で検分がなされると、その者たちの怨霊や災厄を恐れて、儀式にのっとって丁重に供養するというのが慣わしでした。耳塚もその供養塔として建てられたようです。

春には、このあたりがちょっとした
桜のスポットになります。


 ちょっと前までは、歴史好きの方がポツポツ来るような、ローカルな史跡でしたが、ここ最近は韓国・朝鮮の観光客が多く訪れるようになりました。観光ツアーの中に組み込まれているらしく、毎日観光バスが止まります。50人くらいの団体客が熱心にガイドさんの説明を聞いておられます。


 この耳塚は「方広寺石塁および石塔」史跡群として、今では文化財に指定されています。春になると桜が満開でとてもきれいですよ。

 甘春堂・東店のすぐ前にありますので、桜のシーズンには、一度訪れてみてくださいね。

 史跡案内:東山区豊国神社周辺 東山区正面通本町東入る)
  甘春堂東店


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